そういえば「個人主義」って言われていました。
皆さんのコメントのなかから、「日本人の集団性」という言葉を多くお見受けしたことから、前回は二回に亘ってそのことについて考えてみました。 その文章に対するコメントとして、「以前は日本人といえば『個人主義』だと言っていたじゃないか」という意見があり、「そういえばそうだった」と思い起こした次第。 集団性と個人主義。 皆さんには全く反対のことのように思われるかもしれませんが、これも「島国」特有の性格だと考えると、日本人が集団性を重んじながらも、個人主義的に見えることにはなんの矛盾もないように思うのです。
前回この島国日本を大海に浮かぶ小舟にたとえましたが、この狭い船のなかで、いさかいを起こさないためにはお互いの「領域や領分を侵さない」という規律が必要になってきます。一人ひとりが自分の分をわきまえてはみ出さない。隣の人に迷惑をかけないからこそ、船の中の秩序は守られるのです。
たとえば、日本の食卓では家庭でも、おかずはお皿に取り分けてめいめいに出します。韓国のようにひとつの鍋を数人がそれぞれのスプーンでつついていると、不公平が生じます。ですがはじめから自分の分が取り分けられていれば、おかずの取り合いで不服が出ることもありません。公平に互いの領分をおかさない知恵です。 また、人との関わりかたも淡白です。 もしこの船の乗員の一人一人がお互いに深く関わり合ったらどうなるでしょう。人間関係が濃密になり、愛情や憎しみが渦巻いても逃げ場がありません。毎日顔をつきあわせていなければならない小舟のなかでむやみに「濃密な関係」があちこちで発生し、愛情や憎しみがドロドロに渦巻いてしまったらいたたまれないことでしょう。 日本人はたとえ強い愛情なり憎しみを感じていたとしても、口に出したり、顔に表したりせず「何事もない」かのように振る舞います。 愛情や好意を感じて「おつきあいしたいな」と思ったとしても、それをストレートに口には出しません。 たとえば、日本の男性は好意を持った女性に近づきたいと思ったら、古典的な方法としては「映画のチケットが二枚あるんだけど」などという口実を設けて相手の出方を見ます。 その時、「忙しい」などと断られたら「脈がないのだろうか」と思案します。そんなことを何度か繰り返して、断られ続けたら「これは可能性がないのだ」と「相手の意図を察して」あきらめるのです。 誘った方も「好意がある」という言葉を最後まで言わないし、誘われたほうは実は内心相手の気持ちをわかっていたとしても、「気がつかないふり」を通すことで相手の顔をつぶさなくてすむのです。 男性はこれで「失恋した」と思うわけですが、悲しみを胸に抱えつつも言葉に出していないのですからその後も何事もなかったような友人としての関係は続けていけるわけです。 そこには「察する」という非常に日本的な、つまり小さな小舟のなかの人間関係を上手に調整しようとする気遣いがあるわけです。
ところが韓国ではそうはいきません。「口に出してはっきり言わねばならない」のが韓国人のようですね。「察する」ということはなかなかしてくれません。 ソウルに暮らしていた時こんなことがありました。 南大門市場で買い物をしていたとき、韓国人男性から声をかけられたのです。 「黒田さんじゃないですか?私は日本に留学していましたからあなたのことをよく知っています。名前は○○○と言います。今度ゆっくりお話がしたいので電話番号を教えてください」 ご夫人も一緒でしたし別段悪い人のようには見えませんでしたが、正直「見ず知らずの人に電話番号を教えたくない」と思いました。もしもそうはっきり言ったら相手の気持ちを傷つけると思うと本心を言えないのです。 ですがその時、運悪く私は携帯電話を首からぶら下げていました。「電話を持っていない」とも言えず仕方なく番号を教えました。するとある日電話が掛かってきました。 「もしもし○○○です」その方はとても早口に名乗るので、まるで聞き取れません。 「どなたですか?」 「南大門で会った、○○○です」 「ああ・・あの時の・・」 ところがこちらは連日忙しい日々を送っています。「会いたいんです」とおっしゃるが、こちらはそれどころじゃない。 「申し訳ないですが忙しいので」 しばらくするとまた掛かってきますが、いつも名前がわからなくて、何度も聞き返してしまいます。つまりこちらはその気がないので何度聞いても名前を覚えられないのです。毎日取材に追われていましたので時間に余裕もありません。しかし相手の対面を考えるとピシャリと断ることもできず、毎回その場をやりすごして電話を切るということを繰り返していました。 「私が困っていることをいい加減に察してくれ!」と腹立たしくさえ思いましたがまるで通じません。 ある日のこと、またその方から電話が掛かってきました。 またもや誰であるか思い出せず、さんざん前のような会話を繰り返したあと、彼が言いました。
「ヌナ。親しくなったんだからヌナと呼んでもいいでしょう? ヌナはもしかして僕がこうして電話をかててくることが迷惑なんですか?もしも迷惑ならこれからはかけませんから」 私は逡巡しました。相手に向かって「迷惑だ」と言い放つなんて、日本人にはとてもできないことです。しかし私は勇気を出して言いました。 「こんなことを言って申し訳ないのですが、はっきり言って迷惑です。それに道端で偶然に会っただけなのに、ヌナもなにもないでしょう。私はあなたが想像する以上に忙しいんです。こちらに来てからご挨拶に伺わなければならない方にもお会いできないほどなんです。わかってください」 「わかりました。どうもすみませんでした。もう電話はしません。お元気で」 ひどいことを言ってしまったと後味が悪かったし、こんなことを言われた相手の心情を考えるとひどいことをしたと、申し訳なく思った。 と同時に「なんで私にここまで言わせるんだ。こんなことになる前にどうして察してくれないんだ」とも思った。
後日韓国人女性にこの顛を話すと、彼女は笑って言った。 「そういう時ははっきり迷惑です、困りますと言わなくちゃ」 「頭では韓国人にははっきり言わないと通じないとわかっていても、日本人としてはそんな言い方ってできないのよね。じゃあもしあなたが好きでもない男の人から誘われたら何て言うの?」 「興味ありませんから、ってはっきり言うわよ」
日本人は相手の心の傷を思うと、失礼なことはとても言えないのです。 お互いの気持ちがはっきりしない段階では、深い愛情も、冷酷な拒絶も示さない。 「言えないけれど、わかってほしい」こんなやり方は狭い国土のなかで、人間関係を音便に保つ配慮なのです。 日本人は表裏があってわかりにくい、心のなかで何を考えているのかわからないと警戒されますが、それは「二心」(悪い意味で表面と内心を使い分けている)があるのではなく、相手をあえて傷つけたくないという配慮をするからなのです。
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